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 あるものを二度見てははああれだなと合点するのを recognition と申します。二度以上たびたび見て、やっぱりあれだなと承知するのを cognition と申します。もし一つものをたびたび見る代りに同種類の甲乙をたびたび見た上で、やはり同種類の丙(へい)に逢った時、これはこの種類の代表者もしくはその一つであると認めるのは conception の力であります。隣りの斑(ぶち)はこうであった。向うの白はこうであった。どこそこの犬はこうであったの経験が重なると、すべての犬はこうであったと纏(まとま)って参ります。それがもう一層固まると、こうであったが変じて、かくあらねばならぬとまで高じて参ります。かくあらねばならぬとなった時に、犬なら犬全体に通じての考ができます。かくあらねばならぬ考だから、本人はまだ見ぬ犬にも、いまだ生れぬ犬にもこれを適用致します。さてこの概念を抱(いだ)いて往来を歩いていると、たちまちわんと吠えられる事があります。当人はさっそくにははあ鳴いたな。これ犬なりと断じます。私はこのこれ犬なりの叙述を conceptual な叙述と申したいのであります。犬は一匹であります。

 しかし凡(すべ)てこれらの手紙は受取る前から予期していなかったと同時に、受取ってもそれほど意外とも感じなかったものばかりである。ただ旧師マードック先生から同じくこの事件について突然封書が届いた時だけは全く驚ろかされた。
 マードック先生とは二十年前に分れたぎり顔を合せた事もなければ信書の往復をした事もない。全くの疎遠(そえん)で今日まで打ち過ぎたのである。けれどもその当時は毎週五、六時間必ず先生の教場へ出て英語や歴史の授業を受けたばかりでなく、時々は私宅まで押し懸けて行って話を聞いた位親しかったのである。
 先生はもと母国の大学で希臘語(ギリシャご)の教授をしておられた。それがある事情のため断然英国を後にして単身日本へ来る気になられたので、余(よ)らの教授を受ける頃は、まだ日本化しない純然たる蘇国語(スコットランドご)を使って講義やら説明やら談話やらを見境(みさかい)なく遣(や)られた。それがため同級生は悉(ことごと)く辟易(へきえき)の体(てい)で、ただ烟(けむ)に捲(ま)かれるのを生徒の分(ぶん)と心得ていた。先生もそれで平気のように見えた。大方どうせこんな下らない事を教えているんだから、生徒なんかに分っても分らなくても構(かま)わないという気だったのだろう。けれども先生の性質が如何にも淡泊(たんぱく)で丁寧(ていねい)で、立派な英国風の紳士と極端なボヘミアニズムを合併(がっぺい)したような特殊の人格を具えているのに敬服して教授上の苦情をいうものは一人もなかった。