青空文庫」カテゴリーアーカイブ

里村 欣三

 俺は苦笑して地ベタに視線をさけた。――街路樹の影が、午さがりの陽ざしにくろぐろと落ちていた。石ころを二つ三つよごれた靴で蹴とばしているうちにしみじみ、
 ――いい女だなア――
 と、浮気ぽい根性がうず痒く動いて来た。眼をあげると、女はペンキの剥げたドアにもたれて、凝っと媚を含んだ眼をこちらに向けていた。緑色のリボンで、ちぢれた髪を額から鉢巻のように結んだ、目の大きい、脊のスラリとした頬の紅い女であった。俺が顔をあげたのを知ると、女は笑って手招きした。俺はかぶりを振って、澄ました顔をした。すると女は怒って、やさしい拳骨を鼻の頭に翳して睨めつけた。
 青草を枕に寝転んでいた露西亜人が、俺の肩を肱で小突いて指で円い形をこしらえて、中指を動かしてみせた。そしてへ、へえ、へえと笑った。
 ――よし! ――
 と、俺は快活に、小半日もへタバッていた倉庫の空地から尻を払って起きあがった。そして灰のような埃を蹴たてて往来を横切った。俺の背中に、露人が草原から何か叫んで高く笑った。
 女は近づいてみると、思ったよりフケて、眉を刷いた眼元に小皺がよっていた。白い指に、あくどい金指輪の色が長い流浪の淫売生活を物語っているような気がした。女は笑って俺を抱いた。ペンキの剥げた粗末な木造の家であった。
 ドアを押すと、三角なヴァイオリンに似た楽器を弾いて踊っていた女達が、俺の闖入に驚いて踊をやめた。そしてばたばたと隅ッこの固い木椅子に腰を投げて、まじまじと俺を凝視めた。

「うむ、それから」
 と興に乗じた隊長は斜な陽を、刃疵のある片頬に浴びながら、あぶみを踏んで一膝のり出した。すると鞍を揉まれたので、勘違いして跳ね出そうとした乗馬に「ど、どとッ、畜生」と、手綱をしめておいて、隊長は含み笑いに淫猥な歯をむいて
「それから」
 と、飽くまで追及して来た。
 軍属の高村は、ひとあし踏み出して乱れた隊長の乗馬に、自分の馬首を追い縋って並べ立てながら
「は」
 と、答えておいて、あ、は、は、は、はッと酒肥りのした太腹を破ってふき出した。
「隊長殿。これ以上には何んとも」
 彼は恐縮したように、まだ笑いやまない腹を苦し気に、片手の手綱をはずして押えた。
「何故じゃ、高村」
「は、そう開き直られますと、猶更もって…………」
 隊長はちょっと不快な顔をした。「軍人はだ。昔しから野暮なもんと相場がきまっとる。徹底するところまで聞かんことには」
「お気に召しましたか?」
 ふいに隊長は濶達に、日焦けのした顔を半分口にして笑いたてた。
「あ、は、は、はッ」

 午さがりの太陽が、油のきれたフライパンのように、風の死んだ街を焙りつけていた。プラタナスの街路樹が、その広い掌のような葉身をぐったり萎めて、土埃りと、太陽の強い照りに弱り抜いて見えた。
 街上には、動く影もなかった。アスファルトの路面をはげしく照りつけている陽脚に、かすかな埃りが舞いあがっているばかりで、地上はまるで汗腺の涸渇した土工の肌のように、暑熱の苦悶に喘いでいるのだ!
 この太陽のじりじり焼きつける執念深さから、僅かな木影や土塀の陰を盗み出して、そこにもここにも裸形の苦力が死んだように、ぶっ倒れていた。そして寝苦しく身悶えする肌に、食い散らされた西瓜や真桑瓜の種子が、おかまいなくこびりついた。
 日幕を深くおろした商店は、まるで唖のように静まり返えって、あの業々しい、支那街に特有な毒々しい調子で響いている筈の算盤や銅貨の音さえも、珍らしく聞えて来なかった。幕の隙間からは、涎をたらして、だらしのない姿態で眠むりこけている店員たちの姿が見えた。蠅ばかりが、閑散な店の土間を一杯に、わんわんとかすかな唸りをたてて飛び廻っているだけだった。……

佐藤 春夫

 その男はまるで仙人のように「神聖なうす汚なさ」を持っていました。指の爪がみんな七八分も延びているのです。それがしきりとわたしに白孔雀の雛を買えとすすめるのですから、わたしはお伽噺みたようなその夜の空気がへんに気に入ってしまったのです。そうしてわたしはつい一言、そんな高価なものを買ってもいいようなことを言ってしまったのです。が、いいあんばいに先方の値とわたしの値とは倍以上も違ったものだから、まるでお話にも何もならずにしまったのです。それでこの話はおじゃんになったのですが、しかし小鳥屋の才取をするこの仙人は、わたしに鳥を売りつけようという考は思いきらなかったものと見えます。一週間ばかりして今度はわたしに鸚鵡を買えとすすめて来たのです。
 仙人は初めこの鳥を持って来て、これを紹介しました――十やそこらは完全に口を利く。それの発音は明確で微妙である。その上に何だかわからないが長いこと喋りもする。歌は「ハトポッポ、ハトポッポ」とそれだけしか歌えないけれども、その調子の自然なところが、この鳥の有望なところだ。まだ三歳ぐらいな若鳥だと思うから仕込みさえすれば、童謡の一つぐらいは完全に歌うだろう。この鳥の名は「ロオラ」というのだ……と、そこで「仙人」はわたしのうちの女中にビスケットを買って来させて、それを鳥に見せながら言うのです。

 今朝、室生君からの手紙を枕頭に受け取つて、まだ起きもせずに開いて見ると、忘春詩集に序を書けといふのである。読みながら第一に私が思ひ浮べたことは或る会話である。それはつい一週間も前に私を訪ねた或る人と私とが取交したものである。――
「この間、室生氏のところへ行つて、悪い嗜みだとは思つたが直接にあの人の詩をほめたら、僕の詩をほめるのはお前の小説には感心出来ないといふことの代りぢやないかねと室生氏に言はれましたが、そんな悪い智慧をつけたのはあなたぢやありませんか。」
「いや。僕は室生君にそんなことを言つた覚えはない。――が、待ち給へ。僕は五月ごろに彼に逢つた時に『新潮』に出た彼の詩の新作を三嘆して、あれこそ本当に君のものだ。君の小説の全部を見るよりもあの詩のなかのどの一篇をでも見た方が一層親しく君に接するとさへ思ふ。――とさう言つたことは思ひ出す。僕は必らずしもその小説を貶めるつもりではなかつたのに、室生君は自分に考へて見て或はさういふ風に解したのかも知れない。」
 私は本当にさうかも知れないと思つて、それにしても室生君が私のごとき者の一語をもそれほど気にとめて居てくれることを有難く思つた。

 私達の友人は既に、彼の本性にかなはない総ての物を脱ぎ棄て、すべての物を斥けた。そして彼自らの手で紡ぎ、織り、裁ち、縫ひ上げたところの、彼の肉体以上にさへ彼らしい軽羅をのみ纏ふて今、彼一人の爽かな径を行つてゐる。
 他の何人に対してよりも、自分自身に対して最善の批評家であるところの彼は、つねにただ、彼の子供として恥しくない子供だけを生み、より恥しくない子供だけを育て上げてゐる。彼のと異つた芸術を要求することは固より許されよう。彼のにまさつて完全なる(或は完全に近い)芸術といふものは、たやすく現代の世界に見出されないであらう。
 彼の芸術は、詩に於て最も彼らしきところを、最も完全なるところを示してゐる。
 今の詩壇に対する彼の詩は、余りにも渾然たるが故に古典的時代錯誤であり、余りにも溌溂たるが故に未来派的時代錯誤であることを免れない。
 嗚呼、この心憎き、羨望すべき時代錯誤よ。時代錯誤の麟鳳よ。永久に詩人的なるものよ。
『永久に詩人的なるもの』私達の友人よ、ねがはくは彼によりて、彼を取りまける総ての者が、詩の天上にまで引きあげられて行くことを。

佐藤 武夫

あいつらにいぬにされた俺は 俺達で
四つん這いにまで あいつらを叩きのめそう
ゆううつの中に立てる現場を畳み込んで
勇敢の中に立てる職場に置きかえよう
新らしき住居は「四方隠し」より「動き」へ
「だんまり」より「話しかけ」に流れる

駅より駅へ
列車より納戸へ
汽船より台所へ
事務所より劇場へ
憤りにふるえる方向と
組織された健康にあふれて
グレーチェを含めた十二人の同志が
カスペルを含めた八人の人形を抱えて
考え深く通り過ぎる

イリイッチの長靴は十年を歩み続けた!
ボロボロで、デコボコだ、破れかかっている。健康にあふれて、はち切れ相だ
わざと盛り違えた処方箋や、持ち古るされた殺戮によって真赤な血を塗りたくられている
俺達は知ってるんだ!
――イリイッチの赤い長靴を
――その正確な跫音を
――襤褸っきれに包まれた「健康」を
それこそ――
全ての鞭を堪えて歩む方向ある操作だ
労働者と農民の国の正しいまなざしだ
戦争の脅威に抗する力学だ
歴史の精密なる計算を担う健康だ
世界の隅々より一切を取上げる闘いだ

靡け高く俺らの旗!
凡ての工場の煙は消えろ
広塲へ! 広塲へ!
氾濫の俺らの力が波うつ
ながい搾取と鞭の下で
誰が屈辱の涙をなめなかった?
誰がお前とお前の子のために起たなかった!
おお! 苦闘の日の長い長いトンネルを思え
ブルジョアの指す太陽を見ることなく
俺らの太陽に向って進んで行こう!
圧制の鞭には団結の斧で
示威で地上を揺がすのだ
街頭へ! 街頭へ!
おお氾濫の力でメーデーに行け!